いびつな曲線をもつ僕ら

「それは、〇〇して!
 いや、違う!!

 だから、そうじゃなくて、〇〇して!!

 あぁ、もう分かってる?

 だ・か・ら、〇〇してって!!!

 違う....

 もういい、私やるから!!!!」

 

こうやって、言われた経験はないだろうか。

私は仕事で言われることが多いし、

先日は家の手伝いをしている際に、母にこれを言われた。

こうやって言われると、

自分のダメさ加減に落ち込んだり、

「自分でやれよ」と思いイライラしたり、

同じように相手のうまくいかないところを指摘してやろうと思ったりする。

その後、自分や相手への嫌悪感が生まれ、空気が悪くなるのは必須だ。

 

そういったデメリットがあるのに、

なんでこのような発言をするのだろうか。

これは、相手と自分の間の隔たりが認識できていないのである。

自分がわかることは相手も同じように分かるし、

同じようなスピードで行うものだという思い込みだ。

私たちは、決して同じ人間ではない。

運動能力も違うし、思考能力も違うし、性格も違う。

そのことを認識して発言をしなくてはいけない。

これは簡単なことではない。

実際に、こうやって分かりあうことができなくて、

発生する問題が世の中にあふれている。

いじめだったり、戦争だって、

こういったことの延長だといっても過言ではない。

 

私の好きなバンドMr.childrenの「掌」という曲では、こう歌っている。

「一つにならなくていいよ。

 認め合えばそれでいいよ。

 それだけが僕らの前の暗闇を優しく散らして

 光を降らして与えてくれる」

 

私たちはそれぞれ違って、

それぞれが尊い存在であること。

そのことを忘れずにいたい

そう思った。

 

 

タイムマシンに乗って

久しぶりに小学校時代の友人とあった。

私が唯一今でも連絡を取って、長期連休に遊ぼうと誘う相手なのだが、

ここ2年はプライベートの忙しさがあり、会っていなかった。

しばらく顔を合わせていないと、

どんなに仲が良かったとしても、誘うことに躊躇する。

 

2年の間に急激に忙しくなっていないかとか、

そもそも誘われたくないと思っているのではないかとか、

ぐるぐると不毛な議論が頭の中で繰り広げられる。

その議論に終止符をうったのは、このブログ作成である。

「友人に会った時の感じたことは書きたい!」

その思いが大きくなり、誘うことに決定した。

 

『いつ会っても、昔の友人とはそのころと同じように話せる』

そんなことを誰かが言っていた気がする。

まさにそうだった。

話す内容が仕事であったり、家族のことであったり、

体調であったりと、あのころとは違うけれど、

あの空気感はあの当時のままだと思う。

なごやかで安心できて、バカな冗談を言える空気。

2年ぶりだというのに、こんなにすんなりと話せるものなのか....

人とこんなにもしゃべったのは久しぶりだった。

 

100分食べ放題のファミレスで食べながら話していたのだが、

気づけば100分は過ぎていた。

「うそだろ、まだ100分過ぎていないよ。」

タッチパネルのメニューに終了の合図がかかっても、

おかしいなぁとしばらくお互いに言っていた。

その後もしゃべりにしゃべって、

気づけば営業終了30分前となっていた。

時間がたつのが早い!

 

でも、後でよくよく考えると「何を話していたっけ」と思う。

あまり思い出せないのである。

でも楽しかったのだけは、残っている。

多分お互いにためになる話とかは、話していないと思う。

でも、それが友達なのだ。

しょーもない話で盛り上がって、意味のない冗談で笑って......

ただただ楽しい。

大人であることを忘れて、

タイムスリップしたかのように。

 

私の普通と彼女の普通

先日美容室に行った時、

若い見習い美容師さんと話をする機会があった。

 

見習いの美容師さんは一人前の美容師さんとは違い、

髪は切らず、それ以外の眉毛をそったり、髪を洗うのを担当としている。

一人前の美容師さんは、他のお客様と同時進行で接客しており、

効率的に仕事をするため、混んでいて時間が空かないときは、

そういった仕事は見習いに交代してやっているようだ。

 

私も何回か見習いの人にやっていただくことはあった。

ただどの人も仕事に集中しており、私に話しかけてこなかったし、

私も人見知りを発揮し、自分から話しかけることはなかったため、

見習い美容師さんとは、それまで一度も会話をしたことはなかった。

 

そのため、見習いの美容師さんから

ゴールデンウィークどっかいったりするんすか」

と話しかけてきたときには驚いた。

彼女はとても話しやすく、以前から友達であったのかのような親しみ深さと、

フランキーさがあった。

ゴールデンウィークの休みが10日間あることを彼女にいったら、

そんなに!と驚き、「じゃ、プラチナウィークっすね!」

と独特な感性で命名していたのが、面白かった。

 

彼女と私が話しているときに気づいたことがある。

それは、環境とものの考え方が違うということだ。

 

私のゴールデンウィークの休みが10日間であるのに対し、彼女は5日間。

彼女は接客業ということもありゴールデンウィーク中も営業しており、

休みはとても少ない。

まず、これが違う点である。

さらに、このことに関する考え方も違う。

私が「休み少なくて大変ですね」と話すと、彼女は即座にこう言った。

「いや、好きなんでそんなことないですよ。

 むしろ、仕事がない日の方が何すればいいか困りますねー」

その発言に対して、思わず私は

「うらやましいな」

とぼそっと言ってしまった。

 

というのは、私は普段の仕事は正直好きだといえることではなく、

仕事のない日に自分のやりたいことが多く、

それをモチベーションにして仕事をしているくらいだからだ。

仕事という、自分の人生の大半を占めることを

そんなに風に思えるなんて.....うらやましい!!

と心の底から思った。

また、私の周りも自分と同じ考えの人しかおらず、
彼女のような考えの人はいないため、とても新鮮に感じた。

 

彼女にそのことを伝えると、

「....そんなことないと思いますけどね!」

と強く反発したのも印象に残っている。

彼女は仕事に対してすごくまっすぐであり、

強い芯をもった人であることも感じた。

また美容師という仕事が、そういった仕事に対してまっすぐな人達が

多いクリーンな環境であるのではないかと思った。

 

違うと思った点はもう一つある。

休日の過ごし方である。

私はゲームをしたり、動画を見たりと、

なるべく何も考えずに自分勝手に過ごすことが多い。

一方で彼女は、水槽の金魚や猫の世話をしたり、

仕事に関する勉強をしたりしているという。

 

全然違う!!

わたしは何かの世話をすることは面倒なためやらないが、

彼女はそれを進んでやり、それに癒されているのだという。

また、私は仕事のことを休日に考えるのは疲れるため一切しないが、

仕事のパフォーマンスをあげるために勉強をしている....

正直、自分が恥ずかしくなった

彼女は私より若いが、年齢なんか関係なく、

尊敬できる人だと思うほどに。

 

彼女と話して分かったことは、

自分の見ていた世界って、すごく狭いということ

自分の普通は、他人の普通ではないということ

そして、はじめましての人と話すことで

自分のいる狭い世界を抜け出し、

少しだけ大きな世界を見ることができる

それを知ることができた

 

この出会いに感謝!

そして、少しだけ話しかける勇気を持ちたい

そう思った。

 

思いを放て!

皆さんは誰かにプレゼントしたことはあるだろうか。

 

私は以前、一度したことがある。

父の還暦祝いだ。

その時はなんでそれをしようとしたかはあまり思い出せない。

ただ、怖かったのは覚えている。

「喜んでくれるだろうか」

プレゼントを渡すまで胸がそわそわし、

じっとしていられなくて、苦しい。

「これなら、渡さないことにすればよかった」

と何度も思うほどに。

私の父は、思ったことをそのまま話すタイプなので、

「なんで、これなの?いらないよ」とか言いかねないから、なおさら。

 

「ありがとう」と喜んでもらえる保証などないのだ。

自分とは違う一個人であるのだから、当たり前だ。

自分の思い描く結末を強要することなんて、

身勝手以外のなにものでもない。

あくまで一方的なものなのだ。

 

ならば、そこまでして渡すプレゼントの意味って何だろう。

それは、「自分の気持ちを伝える」ツールなのだと思う。

感謝であったり、祝いであったり.....

自分の中から出たがっているそんな気持ちを放つためにやるのだ。

これって、実は自己中なんじゃないかって思う。

プレゼントをもらう人じゃない人が、

この人はこれが欲しい...

この人はこれがあると便利になる....

正直勝手な妄想である。

でも、それでいいんじゃないかって思う。

気持ちって伝えないより、伝える方が絶対いいから。

 

だからまた、僕は身勝手に渡そうと思う。

今度は、父の退職祝いだ。

前述のとおり、父は正直ものだ。

ある意味人の気持ちを考えず話す。

「なんだこれは。いらん」言われるかもしれない。

その時は少年漫画のバトルシーンみたいに、迎え撃とうと思う。

上等だ、かかってこい!

俺の気持ちはこれだーーー!!

波ーーーーーーっ!!!!

日常を書くこと

最近、ブログを書くのを日課にしているが、

気づいたことがある。

 

1つは、『雑談がすんなりできるようになった』である。

先日美容室で髪を切ってもらっている際も、

「何を話そうかな」と、うーんと悩んで悩んで

ひねり出して会話をするところが、

すらすらとしゃべれた。

自然とブログで書いたことをしゃべっていたのだ。

何気なく感じたことって、どうしても日常の忙しさに埋もれてしまう。

だけど文字にして残すことで、いつのまにか記憶として定着していたんだな~

と分かった。

 

2つ目は『少し活発になった』だ。

「ブログに書けることなんかないかなぁ」と何かおもしろいことを探したり、

初めての物事に触れたいと思って、それを探しにいくようになった。

以前までは、家にいる方が楽だからと休日は一日中外に出なかったが、

外に出たいと思うようになったし、

実際に出るようにもなった。

 

3つ目は、『感情が豊かになった』である。

これまで何か感じたことがあっても、その気持ちを放出したり、

だれかに伝えたりすることをしてこなかった。

それゆえに、なにか消化不良感があった。

自分の周りに幕が張ってあるような、俯瞰で自分をみているような

抑制されたもどかしさを抱えていた。

書くことがそんなわずらわしさを取り払ってくれたように思える。

書くことが生活を鮮やかにしてくれたとさえ思う。

 

書くことは、自分にうれしい変化をもたらしてくれる。

こうやって書く場を設けてくれた「はてなブログ」さんにも感謝!

これからも色んなものを感じて、書いていきたい。

 

 

悪のループを断ち切れ

もうすぐ、ゴールデンウィークがやってくる。

皆さんはどのように、お過ごしだろうか。

 

早く来てくれー、とワクワクして待っている学生さん

孫が来るからと、せかせかと家の掃除をしているおばあちゃん

休み前だから仕事に身が入らない新入社員

休み前だから終わらせなければいけない仕事に四苦八苦しているベテラン社員

 

色んな人がいるだろう。

そうやって待っている間は、準備や後片付けなどで

活動的に動いていることが多いのだが、

いざ休みに入ってみると、

「何もしなかった」「一日中動画見てた」「寝てた」など、

ただ時間が過ぎただけで何も得られなかった...なんてよくあることではないだろうか。

 

「あーあ、あと一日で休み終わりかぁ....なんもやらなかったなぁ」

はぁーとため息をし、次の日会社にとぼとぼ向かう。

毎年毎年こりずにこれっ!

同じ休みを毎年ループしてるのではないかと思うほど。

いやな休みのルーティンとなっているのだ。

「何もしないことが休むことだよ」という人もいるかもしれない。

ただ、本当にそうだろうか?

例えば、昼まで寝ちゃった休日の絶望感たるや、凄まじいものである。

「な、なんで寝ちゃったんだぁぁぁぁぁぁぁ、あと半日しかねーーーー」

そう、つまりやりたいことがあるのだ。

それができなくて、このように絶望するのである。

そして、精神的疲れがどっと襲来。

休みなのに、全然休まらなかった状態の誕生である。

 

「やりたいことをする時間があるのに、やりたいことをやらない」

これって、すごい矛盾だ。

なんでこんなことが起こるのだろうか。

人はそもそも楽な方へと行動していく、

そういった習性があると何かの本で読んだことがある。

つまり、やりたいこと=楽なことではないことが多いのではないだろうか。

だから、できないのだ。

 

しかし、当たり前だが「やりたいことは、やりたいこと」である。

疲れるから、やりたくないことに変換されるものではない。

「疲れるから、ちょっと置いといて。また、あとで。」

これが悪なのである。

これを断ち切れば、充実した休みを過ごせるのだ。

 

そして、私は今年のゴールデンウィークこそは、

この悪のループを断ち切ろうと思う。

そこで、考えたのがこれだ。

・朝のルーティンタイムスケジュール

ゴールデンウィーク中にやりきることリスト

 

「休みは縛られずに過ごしたい気持ちもあるが、やりたいことはやりたい」

これを叶える方法として、だれも活動してない朝早くに

やりたいことをやってしまえばいいのではないかと考えた。

そこで、朝のタイムスケジュールを作り、それを毎朝守って行動し、

終わったことは、やりきるリストにチェックを入れていく。

朝以外は、自由に行動すればよい。朝だけを守ればいいのである。

注意すべきことは、やりきるリストに書く内容は

あまり無理をしない程度にしておくことだ。

ちゃんとやりきらなくては、「全然休まらなかった状態」がまた誕生してしまう。

 

あれこれと作戦は話したが、実績がない。

絵に描いた餅にならぬように、実行して、

今度こそは、満足のいく休みにしたい!!

悪のループを断ち切って。

 

ハゲの境界線

「ハゲの境界線はどこか?」

今日はこの命題について、考えていこうと思う。

 

きっかけは、先日あった飲み会でおでこを見せた時に言われた一言

「グロイから、やめろ」

これである。

どうやら、以前より前髪が後退しているとのこと。

「えっ、そんなに!」とショックを受け、

飲み会後に鏡で確認してみた。

 

たしかに....でこが広い

 

しかし、ここで疑問が浮かんだ。

『でこが広い人とハゲの人の境界はどこなのか』

ということだ。

ショックを乗り越えて、

諦めきれず「まだ、ワンチャンセーフなのでは?」

と醜くももがく私。

 

でも、実際そうじゃない?

おでこ広くても、かっこいい俳優も可愛い俳優も美しい俳優もいるではないか!

その人たちは、ハゲとはいわれていないし、

後退しているともいわれていない。

「それはビジュアルがいいからじゃないの?」と正論をいう心の声が聞こえたが、

いったん無視させていただく。

 

いずれにしても、

おでこの何割髪がなければハゲといった明確な基準はない。

つまり、ハゲの境界はあいまいなもので、

主観的なものでしかないということだ。

読者の皆様には私のような被害者(?)が出ないように、

ハゲと発言するときには、それ念頭に置き、注意していただくようお願いしたい。

わたしはワンチャン救える!と信じたい。

(誰かがハゲだと思った時点でアウトだとかいう正論はやめてね)

 

皆さんはこの問題について、どう思うだろうか...